平成14年11月から17年9月までの35ヶ月、地元月刊情報誌に同名のエッセイを寄稿しました。双子の娘がカミさんのお腹にできたと知ってからの13年間を、主に保育園父母の会や小学校PTAを舞台に綴っています。



の壱「父親のスタート」平成14年11月号

 平成3年12月、会社から得意先へ向かう途中ポケベルが鳴り、会社へ電話してみるとすぐに自宅へ電話するようにとのことでした。その日の朝、ちょっと体が気になるから病院に行ってみると言っていたカミさんの言葉を思い出し、何かあったのかなと思いながら急ぎ電話すると、「お腹に双子、妊娠5週間」です。大げさでなく飛び上がったことを憶えています。この日12月2日は、奇しくもカミさんの誕生日でした。担当医師が切迫流産を心配し即入院。このときすでに、わが家の“子育て”が始まっていたようです。

 2ヶ月にわたる二度目の入院を経て、6月30日手術により無事出産。双子合わせて5千g余りでしたが、体重が20キロ増えていたのはなぜだったのでしょう。出産翌日廊下を歩いていたカミさんに、見知らぬ方から『予定日はいつですか?』と尋ねられたことが、今でもわが家の笑い話になっています。

 産後は比較的順調で、いよいよ自宅での子育てが始まりました。入院生活が長かったうえ、異常に膨らんだお腹で苦しい生活をしていたカミさんを思うに、これで楽になるだろうと思ったのは大きな誤りでした。一人が泣けば必ずもう一人が泣きます。一人にミルクを与えると、もう一人も必ず欲しがります。すべてがこの調子ですから、とにかく休む暇がなかったようです。『これじゃあ、お腹にいたときのほうが楽だったなぁ』という会話を憶えています。乳児の頃から、私も子どもの世話はしました。というのも、沐浴・授乳を私がしないと、いつになってもごはんができないんです。『飯を喰いたければ、自ら状況を作れ』という無言の教えでした。とにかく赤ちゃんのころから子どもにはよく触ったと思います。

 後から思うと、生まれたその時からたしかに子どもは可愛いのですが、その後どれくらい手をかけたかで、数年後の可愛さが違ってくることってないでしょうか。これは特に父親の場合にそう思います。母親は、10ヶ月もの間自分のお腹で子どもを大きくし、やがて出産という大事業を自ら行います。そうすれば、子どもが自分の分身ということがすぐに理解もできるでしょう。父親の場合、少なくとも産んではいないわけですから、どうしてもスタート時からハンデがあるように思うんですね。その差を縮め、やがて同じ線に辿り着くためには、もしかしたら父親は母親以上の努力が必要なのかも知れません。

 平成7年にもうひとりの娘を授かり、平成8年双子が保育園に入りました。その年の7月、会社を辞め独立。平成10年初めて保護者会の役員というものに就きました。これが現在の活動の原点となります。

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の弐「保育園行事と父親」平成14年12月号

 娘たちが通う保育園は、県内でも有数の園児数でした。おのずと保護者組織も大きく、役員だけで40名近くいました。保護者(役員)参加型の行事も多く、特に夏から秋にかけては目白押しです。

 夏のメイン「盆踊りお楽しみ会」は、近くの広場に建築用足場材を利用した高さ2mほどの「櫓」を組み、四方を提灯で飾り大きな太鼓を乗せます。四隅から万国旗をなびかせ、広場全体を照らす大型照明2基を取り付けます。こうした道具類が2トントラック1台分になりました。トラックの手配から設置にいたるまでの作業を誰がやるのかといえば、すべて保護者会のお父さん役員なんです。お母さん役員はといいますと、比較的短時間で終わるおみやげ用の水ヨーヨー作りに専念していました。

 お父さん役員大活躍の行事は他にもあり、みんなそのたびに仕事を休んで来ていたんですね。保護者会に加わっていきなりこの状況ですから、いわゆるこれが「フツー」の状態なんです。ですから私は、実に恵まれた環境でこうした活動が始まったと、今でも感謝しているんです。

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の参「園児の中の父親」平成15年 1月号

 保育園の送迎はカミさんのほうが多かったのですが、あるとき私が迎えに教室へ顔を出したとたん、一人の女の子が『あっ、○○ちゃんのお父さんダー』と私の顔を見つけてニコニコ笑っているんです。私はその子の名前を知りません。次々と子どもたちの顔が私に集中し、『○○ちゃんのお父さんダー』の大合唱になったんです。なんとも言えない不思議な感覚でした。それまでいくつかの行事をこなしているうちに、私が知らぬ間に“顔なじみ”になっていたようです。

 結局子どもたちの中では、保育園に来る人はみんなおともだちの親(家族)であり、そこに父親・母親の区別はないんですね。一般に「保育園の送迎やPTA活動はお母さんがすること」なんていうのは、子どもの辞書には載っていないということでしょうか。

 それからというもの、同級生園児の顔と名前を一致させるための“勉強”がはじまりました。家で娘たちが保育園の話をしだしたときに、すぐ先生やおともだちの顔が浮かぶのは、わが家の子育てとしても大きなプラス材料になりました。

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の四「役員活動の葛藤」平成15年 2月号

 役員活動を続けていくうち、よく云われる無関心世帯や、活動に批判的な一部の園職員の発言に、悶々とした葛藤の時期がありました。やってもやらなくても良く言われない(と思い込んでいた)役員活動に、少々気持ちが萎えたのも事実です。それが、ある“事件”をきっかけに払拭されることになります。

 毎年卒園式に引き続き、「卒園を祝う会」というのが保護者会主催で行われていて、主だった役員は卒園世帯でなくとも、スタッフとして会場に詰めていました。ある年度末、私がスタッフとして参加していたときです。となりの席に座った卒園児のお母さんが、「代表謝辞」を担当する方でした。私が役員活動をしているのは行事などを見て知っていたのでしょう、そのとき私に交わされた言葉は今でも忘れることができません。

 『私は仕事の都合で、一度も役員をできませんでした。それが末子の卒園という最後の最後に、保護者代表謝辞という仕事を仰せつかって、少しだけど役に立つことができそうです。これまで何年もの間、役員の方々のご難儀をみるたび、陰で手を合わせてきました。いままで本当にありがとうございました。』

 一時の「おごり」と「感情」を恥じた、それはまさに事件でした。

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の五「三人姉妹の中の個人(上)」平成15年 3月号

 双子の娘が小学校に入ると、親も保育園保護者会と小学校PTAの二束の草鞋になりました。三人娘それぞれに自分の世界が広がり、周囲に話したいことが山ほどあったころです。

 あるとき長女が、『とーさんは私の話をぜんぜん聞いてくれない』と怒り出したことがありました。もちろん子どもに格差をつけた覚えなどなく、突然の娘の怒りに少々驚きました。この長女、そうでなくとも少し間の悪いところがあって、おそらくこの一件にしても、誰かと話している最中に喋りだしたか、会話のタイミングがぶつかったのでしょう。それでも確かにその時期は、子どもたちと十分な会話があったか自信がなかったんです。娘たちにすれば、『かーさん一人が聞いてくれればそれで十分』というものではなかったのでしょう。

 そこで思いついたのが、以前参加したシンポで聴いた“とーさんと二人だけで晩飯を食いに行こう作戦”です。好きなものを食べながらいっぱい話をしようと、長女から順番に三夜連続で実行することになりました。娘たちが学校の話をしだしても、先生はもちろん、かなりの同級生の顔と名前が一致していたので自信もありました。ところが、長女の好物のすし屋(廻るお店)へ出かけてみると、店先に“臨時休業”の看板。ここでも発揮された長女の間の悪さに、真面目に少し気の毒になったものです。

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の六「三人姉妹の中の個人(下)」平成15年 4月号

 とーさんと二人きりの晩ごはんは、三人ともそれは静かなものでした。静かなのには理由があります。それは“天敵”がいないからでした。食料を侵害される恐れもなければ、発言権を奪われる心配もないんですね。あまりのおとなしさに、『一人っ子世帯も案外いいものかな』なんてちょっと思ったことを憶えています。勉強の話、ともだちの話、学校で流行っているものの話なんかをゆっくり聞きました。時間の流れが緩やかなせいでしょうか、一時間以上座っているのに食べる量というのはたいしたことがなかったです。

 食事中の約束だった、家で待っている二人の妹におみやげを買うため店を出ました。おみやげといっても、コンビニで売っているキャラクターのシールです。自分の欲しいものはすぐ決まるのに、妹たちのおみやげにはとても時間がかかるんですね。でも、『○○はこれがいいかな〜』と一生懸命悩んでいる長女の顔が、その晩一番嬉しそうに見えました。家へ着くなり、待っていた二人が玄関へ駆け出してきます。その二人へ見下ろすような長女の言葉、『おみやげがあるんだけど欲しい〜?』。さしずめ“女王様としもべたち”でしょうか。『欲しいー』を連呼する二人の妹、そこにはいつもの姉妹じゃれ合う姿がありました。私と二人きりのおしゃべりなどはもうどこへやら、その話はもっぱら私とカミさんでしたものです。

 これからもずっと三人姉妹、そりゃあ一人ばかりにお金も目もかけてもらえない寂しさもときにはあるでしょう。でも、プロが作るごちそうをとーさんと二人きりで食べるより、質素なかーさんの手づくり料理をみんなで食べるほうが、よっぽど美味しいと感じてくれれば十分でした。あれから四年、もうこういう機会はないかも知れません。そう考えると、一番貴重な体験をしたのは私なのかも知れませんね。

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の七「おやくろ会と父親」平成15年 5月号

 保育園時代と同様、学校だって家庭の協力が必要だろうとは思っていました。それがいざかかわってみると、それは保育園の比ではありませんでした。

 新入学後間もなく、5月の役員・職員懇親会で初めて担任の先生と一献交わしました。私より五つほど若いその男性教諭の一言、『1年生のお父さんたちと一杯呑みでんしナ〜』。それから一ヵ月後には、「おやじ&おふくろ会」(略称・おやくろ会)なる親睦会が発足しました。晩ごはんを学年親子と担任の先生で食べるこの会は、先ごろ第11回が開かれたところです。

 学年部PTAの必須活動に「親子活動」というのがあって、新1年部でいきなり“お父さんのカレー大会”というのを企画したんです。母親の手を借りず父親だけで200人分のカレーを作るのですが、やっぱり集まってくれる父親の人数が心配なわけです。それが、8割に相当する44人のお父さんが来てくれました。「おやくろ会」で一緒に呑んだ顔ぶれも多かったです。

 「おやくろ会」がこれまで継続できた理由で忘れてならないのが、担任の先生の理解です。学校が休みの夕方それも町外の自宅から、毎回欠かさず出席してくれました。新入学当時の担任の先生は二人とも2年間で代わりましたが、その後の先生も「おやくろ会」の存在を大切にしてくれました。3年生のときの女性教諭は「おやくろ会」という名前を初めて聞いたとき、“親が苦労する会”と思ったとか。「言い得て妙」とはこのことですね。先生方にはとにかく感謝のひとことです。

 父親を含む保護者会のコミュニケーションがうまくとれている学年は、子どもたちの学校生活にも良い効果があるというのは本当みたいです。新入学早々の『一杯呑みでんしナ』の意味は、まさにこれにあったわけですね。

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の八「PTAに酒は禁物!?」平成15年6月号

 趣味嗜好は人それぞれに異なり、同じ趣味の人が集まるサークル活動などが盛んです。対して、世の中には有無を言わさず加入させられるものもいくつかあります。そう、「PTA」もその一つです。

前号で紹介したように、双子の学年は新入学早々から「酒」が含まれる親睦会を始めました。「宴会」ではありませんが、毎回晩酌程度の酒が出ます。実は、『子どもと一緒の活動で酒を呑むとはけしからん』という論調が、いつの時代にもあることを後から教えられました。でも私は、「おやくろ会」に明らかな弊害があるとはどうしても思えなかったんです。

 “強制加入”のPTAでは、学校へのかかわり方も人それぞれです。役員仕事をキッチリこなす人、授業参観だけに出席する人、スキー教室の指導は欠かさない人という具合にいろいろなタイプがあるわけです。そうした一つに、酒を呑みながら親睦を深めたい父親って結構多いんです。あっ、もちろん母親だっていますよ。そうしたいくつものタイプを考慮して、学校との接点に選択肢を増やすことが重要だと思ったんです。ですから、“酒ダメ派”の人にもこうした「会」を認めてだけもらいたいんですね。

 「おやくろ会」が丸四年を迎えた昨年度、すべての学年が同じような「親子親睦会」を開きました。もちろん末娘の2年部もスタートしています。児童数が多いこの学年は、第1回の参加者が137人にのぼりました。学校以外の場所に、しかも夜集まるだけで子どもたちは興奮するのでしょう、学習発表会のビデオを放映したら子どもたちがまた踊りだしたんです。それまで言葉を交わす機会が少なかったお父さんお母さんたちが、ビールを片手に互いの子どもの話で盛り上がり、その周囲で無邪気に踊る子どもたち。一度やってみると楽しさが分かりますよ。

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の九「先生も普通の人間」平成15年7月号

 人のイメージに「職業」って重要ですよね。もちろんそれだけで人柄まで分かるはずがないのですが、どうにも先入観は拭え切れません。たとえば警察官だと“強い人”でしょうし、銀行員だと“堅い人”みたいな感じでしょうか。では、「学校の先生」はどうでしょう。

 職員室というところは決まった「家主」がいないせいか、慣れるまでどこかヨソヨソしい空気があります。でも中にいる先生一人一人は極普通の人間で、こちらが抵抗感を捨てたら「役所」よりずっと入り易くなりました。

 大森町の「ほろわんぱーく」の職員は小学校の先生が多いんです。家族で訪ねたとき、一人の職員に『先生たちと呑んでますか?』と問い掛けられたことがありました。職員曰く、『学校の先生ってナンか立派にしてないといけないみたいなところがあるじゃないですか。でも、たまには自分の素の部分を保護者のみなさんにも知ってもらいたいもんなんですヨ』。現場を離れているからこそ言える本音なんでしょう。

 学校の先生だって、家に帰れば子どもに手をやく「母」であり、奥さんから小言を言われる「夫」であり、結婚に夢を馳せる「若人」なんですね。もちろん指導者としての能力は求められますが、必要以上に“崇高”に思われたら息も詰まるんでしょう。飲み会で女性教諭と母親たちとの会話を聞いてると、まるで“長屋の井戸端会議”ですよ。

 子どもたちを導くという点において、先生も保護者も“仲間”であることが肝要ではないでしょうか。少なくともそこに上下関係はないはずです。万に一つ、立場の違いを「学校」VS「保護者」なんて考えている人がいたら、それは“愚の骨頂”というものでしょう。

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の十「子どもに相応な行事って!?」平成15年8月号

 一口に「小学生」と言っても1年生と6年生では大きな差があります。体よりも心の差でしょうか。実は、もっと大きな違いがPTAにありました。

 ある年の4月、事業計画を話し合う会議で「盆踊り」を提案したことがありました。昔はよくやっていましたが、昨今踊れる人さえ少なくなった「地元音頭」です。一晩のための浴衣も無駄なので、自由に作る「仮装」を思いつきました。これは、運動会で高学年の女の子が顔にペイントしているのを見たのがヒントです。奇抜な衣装で伝統の「音頭」も踊れば、当時流行っていた「パラパラ」を櫓の上で踊ったり、フィナーレには花火を打ち上げたりと、事業名『サマーフェスティバル・仮装DE盆踊り』はノウハウを持つ父親たちで計画が練られ始めていました。

 とき同じくして、一部の高学年保護者の中で「廃案」の狼煙が上がっていたんですね、二度目の会議で猛烈な反対意見に遭いました。理由は「多忙感」と「年齢不相応」。『スポ少などそれでなくても親の負担が増えているのに、これ以上手間のかかるものはご免』と、『高学年の子どもが盆踊りを踊って楽しいはずがない』という二点でした。「多忙感」についてはその方々のお手を煩わすことは考えていなかったのですが、「年齢不相応」は当時双子も低学年でしたから、高学年の子を持つ親の気持ちが分かるはずがないと言われれば返す言葉は持ち合わせていなかったわけです。

 別の企画に変わった事業はそれはそれで意味のあるものでしたし、経緯の緒を引くこともなく責任は果たしたと思っています。そんなこともすっかり忘れてしまったころ、県内で廃れていく「地元盆踊り」に取り組んでいる小学校の新聞記事が二つ続きました。やっぱりやっているところもあったんですね。

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の十一「学校の先生疑似体験」平成15年9月号

 わが子の成長を感じる瞬間はとても嬉しいものです。それが自分の子どもだけでなく学年児童全員だったとき、それは嬉しいにとどまらず“感動”というものでした。

 双子が2年生の学習発表会の出し物に、担任の先生から「地方」(ジカタ・お祭りのお囃子に含まれる唄)を教えてくれる人がいないものか相談がありました。ここは「お祭り」に対する意識が非常に高い土地柄で、これまでもいくつもの学年が取り入れていたようです。そんなお祭りの中でもこの「地方」をメインにすると聞いたとき、すぐに面白いと思いました。とにかく元気には定評のある子どもたちでしたから。

 早速、娘たちが手踊りの指導を受けていた先生に相談したところ、『専門デハねーども、まんずおもしれそうだゴド』と快諾を得ることができました。3曲を選び、歌詞カードを片手に練習が始まったのですが、暑さもあって初めはなかなか集中できなかったんです。唄の先生はそんな子どもたちに檄を飛ばすこともなく、高齢の妙とでもいうのでしょうか、次第に子どもたちの中に存在感が生まれてきました。歌詞を見ないで唄えるようになったのはそれから間もなくのことです。

 いよいよ発表会、子どもたちは本当に素晴らしいステージを見せてくれました。中には血管が張り裂けんばかりの声量を誇る子もいました。民謡という珍しさと元気な唄声が評価され、その後大曲仙北小中学校音楽祭や町の学社研にも出場しました。歌詞カードを初めて持たせた日を思うと、その成長はまさに“感動”です。「学校の先生」という仕事の面白さを、ちょっとだけ垣間見た想いがしました。唄の先生は、今でもこの発表会を笑顔で語ります。

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の十二「親同士のつながり」平成15年10月号

 古今東西「ともだち」の大切さは誰もが知っています。この「ともだち」、環境や立場が近い人だと相談もしやすいですよね。

 子ども社会も3年生くらいに一つの変化が生まれるようです。「9歳の危機」とか「ギャングエイジ」とか云われてますね。一人一人に心の成長があるのですから、いつまでも新入学当時の“純情無垢”というわけにはいかないのでしょう。友人関係が変わったり、急に仲間に入れなくなったり、高学年になると学校へ行けなくなる子もいます。『今までこんなことなかったのに…』が自分のことじゃなくて子どもだったりすると、親はかなりの動揺があります。ちょっと思うのは、そんなときでも保護者仲間や先生とのつながりができていれば、いたずらに事を荒立てることなく対処できるのではということです。

 PTAをはじめとする保護者会活動に参加することは、一種の“保険”のように思うんです。活動に参加した分を「保険料」に置き換えて、いざ事が起こったときに相手の親とすぐ話ができる、あるいは相談できる仲間や先生がいるということが「保険金」という具合です。相手の親が顔見知りだったおかげですぐ話し合いができ、小さなトラブルで済んだということがわが家にもありました。些細な問題がやがて世帯間の争いに発展するケースなどは、相手を知らないことによる「誤解」という場合が少なくない気もします。

 ですからPTA役員なんかもあまり難しく考えず、♪『ともだち100人できるかナっ』くらいの気持ちでいいと思うんです。みんな大なり小なり悩みや不安を抱えて子育てしてるんだし、特に小学校デビュー世帯はだいたい同じ気持ちでいるんじゃないでしょうか。「ともだち」が必要なのは子ども社会ばかりじゃないのは当たり前ですよね。

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の十三「学校の遠慮」平成15年11月号

 担当がしっかり決まっていればいいのですが、妙に曖昧な仕事ってありますよね。そしてその仕事をしなかったのが悪気じゃない場合、ことの真実を知ったとたん『言ってくれれば良かったのに〜』となるわけです。

 昔からお馴染みの「ベルマーク」。あるとき一人の先生から、『自分が悪者になっても収集をやめようと思っている』と打ち明けられました。当時娘たちの小学校では、先生が二人と5・6年生十数人の「ベルマーク委員会」というのがありました。全校世帯から届けられる膨大な量のベルマークを、先生と委員の子どもたちが一週間に一度40分間整理していました。整理の手順も教えられたのですが、とても限られた人数と時間ではかどる仕事ではなかったんですね。先生は、欲しいものは山ほどあっても何一つ購入できない“宝の持ち腐れ”状態を悩んでいたわけです。

 解決策をいろいろ話しているうち重大なことを知りました。実はこの「ベルマーク」、学校だけでするのではなくむしろ保護者中心のPTA活動だったんです。「ベルマーク教育助成財団」が発行している冊子には、『(品物を選ぶにあたって)学校側の意向も聞き…』という記載があるくらい、主導は保護者側にあることが分かりました。悩んでいた先生もその年初めてベルマーク担当になり、この学校は昔からそういうものと思い込んでいたのですから誰を責めるような話ではないんですね。

 今では保護者中心の“普通”の「ベルマーク」になりつつあります。公的予算が乏しい昨今とっても貴重な活動です。学校が保護者に対する「遠慮」を少し取り除くことで、子どもたちの環境が良くなるという例でしたが、“言ってくれれば良かったのに〜学校編”はまだ他にもあるような気がします。

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の十四「最大級の大失態」平成15年12月号

 かつて保育園の活動で感じたのが、役員間の「言葉足らず」でした。年に10回近い会議に毎回出席できる人は希です。そこで始めたのが「おたより作戦」。とにかく情報を伝えることで、役員の中に“蚊帳の外”をなくするというものでした。それが慣れとは怖いもので、今度はPTAの現場で“大失態”を演じてしまいます。

 児童玄関の目の前に、一本の大きな木が立っていました。かねてからこれを「クリスマスツリー」に仕上げるのを夢見ていた私は、総務部幹事を務めた年に正式立案しました。しかし、他の事業の消化と共に「電飾」を購入する予算がなくなっていったんです。これで諦めてしまえば良かったのに、今度は「PTAバザー収益金使途事業」に急きょ方向転換しました。こうなると総務部事業から全校事業に変わるので、PTA会長を始めとする執行部会議に諮る必要が生じます。ところが収益金の判明が11月下旬になってしまい、電飾作業に間に合わないことを心配した私は密かに準備を始めてしまいました。今想うと、『反対されるわけがない』というおごりがあったと思います。間もなく、勝手に進めていることに憤慨した執行部役員の声で緊急会議となりました。学校の賛同もあってどうにか認めてだけはもらったのですが、執行部会の中で実際の作業に参加してくれたのはPTA会長唯一人、私を含め総勢4人の作業が寒風吹きすさぶ中で始まりました。

 事業そのものは大成功でした。中でも一人のお母さんから寄せられた言葉は今も深く残っています。『ツリーの灯りが、スポ少の練習が終わって私の迎えを待つ娘の、寒さと寂しさを忘れさせてくれた』。どんなに良い企画であっても「手順」を間違えると、そこには心から喜べない何かが残るものですね。

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の十五「学校と性教育」平成16年1月号

 『カルチャーショック』。辞書には、「自己の行動や考え方の枠組みを与える文化とは異なった文化と接したときに受ける精神的な衝撃」とありますが、まさにカミさんは「カルチャーショック」を受けて帰ってきました。

 平成15年2月、大曲仙北PTA連合会母親委員会主催で「性教育」をテーマにした講演会と分科会がありました。『はっぴい・マム』に託児の依頼があったので講演会は聴けませんでしたが、その後の「小学校低学年分科会」に顔を出してみました。分科会に出席していたお母さんたちは、一様に貴重な機会になったと言ってました。回数的な機会というより、内容そのものがそれまでの常識を破るものだったみたいです。一人のお母さんから、『性教育を学校に預けるのはちょっと無理ですね〜』という感想がもれました。実はこのお母さん、小学校の先生でもあったんです。普段の自分の教員生活を振り返って、どうしても現実的でないと思ったのでしょう。

 思い当たる節が過去にもあって、ある年の5年部が学年親子活動で「いのちの大切さ講座」を開いたことがありました。助産婦さんが講師の「性教育」が含まれる内容だったので、事前に保健の先生に相談したところ、『そういうのをPTAがするのはとっても良いこと』と言われたそうです。もしかすると「性教育」は、親だけでなく学校の先生も苦手な分野なのかも知れません。

 「性教育講演会」があった晩、カミさんから内容を教えられましたがホントにカルチャーショックでしたね。カミさんは、『避妊や性病の知識は必要としても、まず世の中が若年層の性交渉を安易に容認する風潮がおかしい。わが家だけでも昔のままでよろしい』と持論を展開していました。学校も親も、いつまでも苦手で済む問題ではないんでしょうね。

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の十六「PTA役員希望制」平成16年2月号

 「仕事」というのはなんでもそうだと思うのですが、“やらされている”と感じたら楽しくないですよね。これは「PTA」にも同じことが言えます。

 毎年各学年から15人の役員を選出するのですが、これを決める場というのが“任意参加”の学年懇談会です。双子が入学した4月の懇談会を欠席したわが家へ、翌日あるお母さんから電話がありました。『懇談会に残ってくれたのが8人だけでした。千葉さんに学年部長をお願いできませんか』。状況が呑み込めずまずは学校を訪ね、そこで担任の先生から「役員選び」の苦労を知らされたわけです。あと数日のうちに15人を決めなければならないというので、とにかく知り合いに電話を掛けまくりました。期限までにどうにか揃ったのですが、そのとき『こんな苦労はこれきりにしよう』とホントに思いましたね。

 そこで考えたのが「役員希望制」。PTAにはどんな部署があってどんな仕事をするのか、さらにそれは一回何時間かかって年に何回あるのかを事細かに調べ上げました。その中から各世帯に取り組み易い部署と年度を選択してもらったところ、9割以上の世帯から返信が届きました。定員オーバーや定員に満たない部署を調整する必要はありましたが、これで毎年の4月にゼロから出発することだけはなくなりました。ほとんど「希望」だけで決まった年度もあります。自分の役員予定が分かることで、心の準備ができたり前任者から様子を訊いたり結構良い効果があったと思います。それともう一つ、なにしろ自分で選択した役員なんですから、少なくとも無理やり“やらされる”仕事ではないんですね。

 学年世帯の理解で役員探しに電話をかけまくったのは、新1年生の春が最初で最後になりました。

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の十七「校長先生とPTA」平成16年3月号

 人間社会で必要不可欠なものに、「信頼関係」というのがあります。それまであまり考えたことがなかったのですが、校長先生と保護者の間も決して例外ではなかったようです。

 私たちのPTAでは、6年部保護者から会長を選出するのがかねてからの“しきたり”でした。児童会でも6年生がリーダーシップを発揮するように、PTAも6年部保護者が引っ張って行くみたいな印象でしょうか。ですから会長選出は、新6年部保護者会に一任されていたんです。それがある年の年度末、主だった役員が集まる運営委員会の場で、校長先生から一つの“注文”が出されました。それは、『会長選出の場をもっとオープンにして欲しい』。

 校長先生が言わんとしたのは、全校保護者・全校職員の代表を一部の学年保護者で決めるのはおかしい。なにより、学校長と最も信頼関係が必要なPTA会長を選出する場が閉ざされているのは、あまりに寂し過ぎるではないかということでした。一瞬緊張が走った校長先生のこの言葉も、よく考えてみるとそれだけ保護者会との関係を大切にしているということだったんです。会長経験のない私でも嬉しく思いました。

 校長先生は保護者向けのメッセージで、『校長室へお茶っコ飲みに寄ってください』とよくおっしゃっていました。素直な私はよく校長室へ顔を出しました。職員室の先生と『タイムカード作ってでたんヘ』などと笑いながら、「はっぴい・マム」の良き理解者でもいらした校長先生とは、ホントにいろいろなお話をさせてもらいました。

 3年間勤務された本校を最期に、あと一ヶ月で退官を迎える校長先生。末娘も小学生になったこの3年間は、わが家にとっても忘れ得ぬものになりました。

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の十八「子ども社会も餅は餅屋(上)」平成16年4月号

 昨今「スポ少」の話題が巷で賑やかです。学童スポーツの理念みたいなものとはまた別に、子どもたちには技術の差、そして保護者には思い入れの差が生じます。

 私は中学時代軟式テニスをしていました。2年生の秋に新しいキャプテンを決めるのですが、誰もなり手がなくて「あみだクジ」を引くことになったんです。そして見事?私が当選。顧問の先生もこの決め方を知った上で、私のキャプテンを認めてくれました。肝心のテニスのほうはペア6組のうち5番手、つまり上位3組の団体戦にも出られない実力だったんです。私たち男子庭球部には、「上手な人が主将」というセオリーがなかったんですね。

 主将仕事というのは、備品の管理から壮行会の謝辞まで結構煩雑でしたが、私なりによくこなしたと思います。その分上位選手は練習に没頭できますから、それなりの戦績も残しました。今振り返って想うと、どんなにがんばってもたいした実力に到達しないであろう私の“使い道”を、顧問の先生は知っていたような気がします。高校では選手を諦め応援団に入りました。

 やがて時代が巡り、双子の娘たちがスポ少に加入する年齢になりました。スポーツに特段の才能も思い入れも感じられないのは、私の少年時代を想うと明らかです。家族会議を重ね、結局「水泳」に落ち着きました。体力づくりが主な理由でしたが、団体競技でふるいにかけられるより良いかも知れないと思ったのも事実です。そしてもう一つ、数ある種目の中で“できないと命にかかわる”のはこの水泳だけなんですね。双子姉妹の強い希望で、当時1年生になったばかりの末娘もまもなく入団することになります。

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の十九「子ども社会も餅は餅屋(下)」平成16年5月号

 水泳を始めて1年が過ぎたころ、練習会場の温水プールが老朽化で使えなくなり、夏場以外は体育館を利用したレクリエーション的スポーツを楽しむことになりました。その中に「走る」ことがよく出てきて、それまで苦手だった双子も次第に走るのが好きになったようです。

 そうして迎えた運動会。そこそこの自信を胸に秘めた三人はそれぞれに高順位を狙っていて、三女などは1位を「公約」に掲げました。注目の結果は、長女4位・二女1位・三女1位。見事公約を果たした三女は学年女子ベストタイムのおまけ付き、それより驚いたのは二女の1位です。ビデオカメラで走りを追っていたカミさんは、途中から撮影を忘れていました。二人の大健闘に長女のショックは言わずと知れています。娘たちより少し遅れて帰宅すると、すでに長女は大泣きでした。三人それぞれに全力を尽くしたのは疑うべくもありません。それでも否応なしに順位はつけられる、これは人生において避けて通れぬ現実なんですね。

 思いっきり悔し涙にくれたのは15分くらいでしょうか。次第に明るさが戻り、運動会の出来事を語り始める長女。翌日は家の前を得意気に走る三女にハッパをかけていました。「走る」にかけては脱帽した長女が「応援」に目ざめる。昔の自分を見る想いです。

 人間誰しも得手不得手があるわけですから、一つのことに敗れても勝てる何かを見つける、これがやがて自分に合った仕事や活動と出会うことにつながると思うんです。

 この運動会で一番収穫を得たのは、“餅は餅屋”を少し知った長女かも知れませんね。

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の二十「子どもが増えない一つの理由」平成16年6月号

 確認や経験をしていないのに、世間の声だけで理解した気になってしまうことって、割と日常にあるんじゃないでしょうか。もしもその周囲の声というのが「本当」ばかりでないときが困ったものです。

 今の日本は「少子高齢化」が進んで、中でも出産世代が少ない秋田県は深刻な状況にあります。平成12年から二年間、県子育て支援課が公募した「夢ある子育て家庭づくり100人委員会」の委員を務めました。「秋田県に子どもが増えるためには…」を趣旨とした会議が年二回開かれます。一人の若い女性委員から、『子育てしている家庭に素敵なサンプルが少ない』という意見が出され、そう言われても仕方ないかなと思ったものです。

 確かに世の母親の口から出てくる家庭内事情は、どちらかと言えば「不幸」的発言が多いように感じます。『子どものことが忙しくて自分のことなんかできやしない』とか、『うちの旦那は子どものことなんか考えているのかしら』みたいなことですよね。謙遜の美徳や苦労ばかりの子育てでないのはどの顔からも見て取れますが、それを理解できるのはこちらも子育て世帯だからであって、未婚の若い人たちには言葉の陰の「幸福」が見えないのかも知れません。わが身の幸せばかりを喋り歩く人は嫌われますが、不幸発言もあまり多いと『結婚も子どもも要らない』と感じる人だっているかも知れません。

 仮に「不満」が8で「満足」が2として、ときには2のほうをもっと話すことで子どもを欲しい人が増えたら良いですよね。これには費用も要りませんし、なにより気持ちが明るくなる気がします。あっ、地域の活性化に“子育て自慢大会”なんかダメでしょうか。

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の二十一「子どもは社会の宝と言うけれど」平成16年7月号

 都会の集合住宅のように隣人の顔を知らないというほどではないにしても、最近は地方でも地域の結びつきが希薄になったと云われます。子育て環境も同じように云われていて、たとえば外で遊ぶ子どもを見掛けないとか、よその子どもを叱ってくれる人がいないといった具合です。それぞれにそうなってしまった背景がまたあると思います。

 「夢ある子育て家庭づくり100人委員会」や、後に参画した「県民会議」でもそうした地域環境を話し合いました。すでにそれぞれの地域でなんらかの活動をしている委員も多かったので、話を聞くだけでも多くの勉強になりました。各委員から出される子育て環境の不備には、出産祝い金や保育料などの経済支援、保育所の入所基準や保育体制、子どもを安心して遊ばす無料施設や子どもを交えた地域行事など、それはいっぱい出されます。もちろんすべてがその通りですし、中でもお金に関してはわが家も切実な問題です。でももっと先に欲しいものって、『私たちも応援するから地域のためにも子育てがんばってね』という、周囲の「心」じゃないかと感じていました。

 私の友人に、東京から5人の子どもを連れてUターンした夫婦がいます。お母さんが自宅で仕事を始めるため、当時ゼロ歳だった一番下の子どもも保育園に入園させようと思いました。でも、そのころはまだ受入制度がなかったんです。困り果てて二つ隣り町の子育て支援センターに電話したら、最初に『おかえりなさい』と言ってくれたそうです。結局すぐに解決できる方策はなかったのですが、その友人は『言葉だけでも癒された』と今でも言ってます。こんなことが結構嬉しかったりするんですよね。

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の二十二「過ぎて知る子育て」平成16年8月号

 『人生に後悔はつきもの』とは云いますが、ことに「子育て」の後悔は重く感じる一つではないでしょうか。『あのときのあれが悪かったのでは…』『もっとこうしてあげるべきだった…』なんていうのは、一つや二つみんなあると思います。双子が小学生になってから聴いた講話も、少々後悔させられる内容でした。

 赤ちゃんが「泣く」のは不満や不快を訴えている行動。そのとき親はまず声をかけ、そしてすぐに抱いてあげる。赤ちゃんは困った時には誰かが助けてくれることを学び、これがやがて人を愛し信じる心に発展して行く。

 その時代は考えてもみないことでした。わが家ではそれができなかったんです。いや、知らなかったからできなかったのかも知れません。「双子だから…」では娘たちに申し訳が立たないのですが、カミさん一人ではどうすることもできない場面がたびたびあったと言ってます。私が一人で子守りしているときはもっとヒドい状態だったでしょう。乳幼児の時代は決して手を惜しまない、十分に甘えさせてあげる子育てができなかったあるいはしなかった、わが家の最大の後悔です。

 周囲の保護者仲間も、乳幼児の子育てにはみんな少なからず後悔の念を抱いているみたいです。臨床心理士の先生はそんな親の心情を察してか、『過去はもうよい、大事なのは現在と未来だ』と言ってくれます。確かに少しは気が楽になるのですが、すべてを払拭するには至りません。どんな取り組みもいつから始めたって遅いことはないといえ、こういう話はこれから子どもを生む人たちが聴くのが本当なんでしょうね。

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の二十三「わが子の評価」平成16年9月号

 世の中に「評価」は付き物ですが、親がつけるわが子の「点数」はどうでしょう。学業やスポ少、家の手伝いなどで違うと思うのですが、点数をつけるからには「基準」というのがあるはずですよね。

 平成13年夏、「日本PTA全国研究大会秋田大会」という大きな行事がありました。分科会の基調講演に、『子どもが大きくなるにつれ、次第に親の評価が厳しくなる』という言葉がありました。確かにわが身を振り返ると、子どもがお腹にできたと聞いたときの100点満点は「五体満足」でした。その後も一歳くらいで歩き出せば満点でしたし、保育園時代だって健康でさえいれば満点だった気がします。それがいつの間にか「評価」が入り込んで、それは何が「基準」なのか、学校の通信簿とも違う気がしてよく考えてみたのですが、もしかしたらそれは親の「空想」じゃないかって思ったんですね。

 確かに「できて当たり前」は3歳と10歳では大きく違います。そういう意味では基調講演の言葉も分かるのですが、改めてわが子を観察すると明らかに常識から外れてはいないんですね。つまり、その年齢の人間として「満点」ではなくとも「及第点」は確保してるってことなんでしょう。自分の子ども時代を振り返って、何か一つでも親が「満点」をくれたものってあったんでしょうか。そう考えると親が子に下す評価って、いつの時代も「空想」に近いもののような気がします。

 だからと言って「小言」がなくなるとも思えませんが、ときには元気でいれば100点満点くらいの気持ちで子どもたちに接するのも大事かなと思わせてくれた「全国大会」でした。

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の二十四「父親が子育てを手伝う!?」平成16年11月号

 『はっぴい・マム』のような活動は、趣旨に賛同する人たちが参加しています。これが、わが家のわが子の「子育て」だったら、参加を自由に決められるものじゃないですよね。これは、父母共に同じことが言えそうです。

 平成11年9月、「父親の子育て参加とは?」という副題がついたフォーラムがありました。私はそれまで父親に育児を促す意味を、母親の負担を軽くするのが狙いとばかり思っていました。ところがそこで聴いた内容は、とてもそんな“おもいやり”めいたものではなかったんです。

 『子どもが将来社会生活を営む基本は、父性から授かるものが大きい』。つまり、「約束の時間を守る」とか「罪を犯せば罰がある」のような教えは、幼児期の子どもが父性から引き継ぐということを初めて知りました。もちろん父性=父親というわけではありませんが、少なくとも父性的なものをより多く持つのは父親でしょうから、この事実は大きいと感じたものです。

 育児というものに、「苦労」はあっても「苦痛」は感じないという母親のデータを見たことがあります。父親も一緒に取り組んでいる家庭であれば理解できますが、ほとんど手を貸せない家庭でも苦痛を感じないという母親がいました。それは、夫婦でよく話をする家庭です。どんなに仕事が忙しいといっても毎日24時間働いている人はいないわけですから、気持ちさえあればこれなら簡単です。経験豊富なカウンセラーより、身近で同じ悩みを共有してくれる夫のほうが大切ということなんでしょう。母親が、『お父さんは疲れているから子どもの話はよそう』なんて思わないのも重要かも知れませんね。わが子に関心がない父親には、未だ出会ったことがありませんから。

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の二十五「父親の存在感」平成16年12月号

 「存在感」という言葉があります。『あの人はいるだけで存在感がある』とか、『あの人はいるかいないんだか分からない』とか言いますよね。“昼行灯”でも実害がない場合は良いのですが、やっぱりそれでは困るのが「父親」のようです。

 ある晩インターネットで探しものをしていて、偶然精神科の高名な先生の講演録を見つけました。その中に、最近の保育園で子どもたちの「ままごと」が変わったというのがありました。どう変わったのかというと、お母さん役をやりたい子が減って、お父さん役をやりたい子はさらにいないというんです。お母さん役が減った理由は『いつも小言ばかりで幸せそうでないから』で、お父さん役がいないのは『どう演じたらよいか分からないから』なんだそうです。だから仕方なく父親役になった男の子は、遊んでいる間中ただボーっと立っているというんですね。どんなに外で一生懸命働いていても家庭の中で確固たる印象がないと、子どもには「存在感がない」と映るらしいです。ちなみに一番人気は「ペット」。四つん這いのペット役が楽しいというのもよく分かりません。

 そうした子どもたちがやがて大人になり、結婚して人の親になったときは一体どうなるんでしょう。「ままごと」のようにただボーっと立っていることはないとしても、やっぱりその子どもにも存在感がないと思われるんでしょうか。私も立派なことが言えるほどの父親じゃないですが、娘たちには存在感溢れる男性とめぐり合ってもらいたいもんです。あっ、「結婚するときは相手の親を見て…」という言葉、もしかしたらこの意味だったりして。

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の二十六「育児方針」平成17年1月号

 それまでひとつの疑いもなく信じていたことが変わってしまう。すごく悔しい感じに聞こえますが、それはむしろ気分の良いものでした。

 『あなたは子どもをどんな人間に育てたいですか?』と問われたらどう答えるでしょう。『偉くなくて良いから他人に迷惑をかけない人間に…』と答える人が多いんじゃないでしょうか。私もずっとそう考えてきました。それが、あるNPO法人のフォーラムの一節にこんなのを見つけたんです。

 『人に迷惑をかけない人間に』という育児方針はおよそ日本独特のもので、他の先進国では『人に役立つ人間に』という教え方が一般的である…。

 微妙に異なる表現なんですが、“人の役に立つ”ためには自ら何らかのアクションを起こすのに対し、“人に迷惑をかけない”というのはある意味周囲を拒絶して暮らすとも解釈できると思ったんです。昨今地域のつながりが希薄になったとか、「個」を重視する時代とか言うじゃないですか。他人の噂話が飯より好きというところもしっかり残しながら、まずそんな感じですよね。つまり一般的な日本の育児方針は、『迷惑をかけない代わりにかけられない人間に育てよう』ということになるんじゃないかって考えたら、ナンかちょっと寂しい気がしたんです。

 それこそ人様の育児方針にとやかく言うつもりはないですが、そのときからわが家では、『人間生きていれば他人の迷惑になることもする。だけどいつかは恩返しができるように、人様からありがとうを言われる人間になろう』に変わりました。実践できるかは別にして、このほうがなんか現実的な感じがしませんか。

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の二十七「因果応報」平成17年2月号

 「子は親の背中を見て育つ」、耳慣れた言葉です。子どもは親のすべてを真似するわけではないにしても、引き継がれると困るものが確かにあります。

 平成12年夏、−「こころ」注いで「こころ」育む−という副題が付いた講演会がありました。その中に、『日本人は高度経済成長の時代に物質的豊かさを求めた代償に心を失った』という言葉を聴きました。つまり、かつての日本人に当たり前にあった家族や地域のつながりが、大人たちの「多忙」という状況の中で次第に廃れていったと解釈しました。ちょっと思ったのは、『それって現在も同じなんじゃないの』ということです。当時の経済成長と現在の不景気はまったく異なる背景なのに、「多忙」を理由に家族の団らんみたいなものが減っているのは同じですよね。

 その後しばらくたってある人物のホームページで、一人のおばあちゃんが現代の子ども事情をこんなふうに語っていました。『今の子どもたちがこんなふうになってしまったのは、私たちがバカだったからなんです。私たちが子どもをキチンと育てられなかったから、育っていない人間が親になってしまった』。考えさせられる言葉でしたね。高度経済成長の時代に何かが狂ってしまって、その後社会情勢が変化してもその部分だけは治らなかったんでしょうか。

 そのおばあちゃんの言葉をひとまず一般的とすれば、私たちの年代は「二次・三次被害者」みたいなものだと思うんです。そして同じことを繰り返せば、今の子どもたちは「三次・四次被害者」になるんですね。どこかで落ち着いて考え直さなければ、この先ずっと続くことになるわけです。

 さて、どこからどう直せばいいんでしょう…。

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の二十八「卒業・・・一つの歴史」平成17年3月号

 「月日の経つのは早いもの」、よく云われる言葉です。平成4年に長女・二女として誕生した双子の娘が、間もなく小学校卒業を迎えます。小学6年生は12歳ですから、考えてみると彼女たちのこれまでの人生の半分が小学生なんですね。2,510gと2,600gが○○kgに成長した半分を過ごしたのですから、そう思うと決して短くない6年間にも感じます。

 30年前わが身の卒業を思い起こしました。女子が数人で泣きじゃくっていたのを憶えています。私も泣けてきたのですが、恥ずかしいので涙をこらえました。友達は揃って同じ中学校へ進むわけですから、なぜ泣けてきたのか考えると、それは「学校」と「先生」に対する想いだったんでしょう。

 親となっても学校には感謝ですね。学校は地域と共にあるという言葉を、今は実感として理解できます。学校と保護者、立場は違えども子どもたちを思う心は一つでした。

 娘たちの6年間と共に、私たちPTAの6年間もまたこの学校にあります。小学生の親として過ごしたこの年月は、一つの歴史を感じるほど貴重な時間でした。そう考えると、一番感謝しなければならないのは生まれてきてくれた娘たちに対してかも知れませんね。

 娘たちは、小学生という一つの時代を終えようとしています。これから先を生きていく、「強さ」と「優しさ」と「希望」を学んでくれたでしょうか。30年前のわが身を振り返ると、厳しい評価はご法度ですね。『よくぞ健康で過ごしてくれた』、卒業式の夜は娘たちにそう言ってあげたいものです。

 さて30年前はこらえた涙でしたが、娘たちの卒業ではこらえきれるでしょうか。泣くのが恥ずかしいなど、とうの昔に忘れましたし・・・。

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の二十九「勉強会も時と場合」平成17年3月号

 たとえば「火事見舞い」。今鎮火したばかりのお宅へ、お見舞いに「冷蔵庫」を持っていく人っていませんよね。いずれそれも欲しいんだけど、今はタオル一枚がありがたいのを誰もが知っていると思うんです。

 かつて、市町村間接補助事業として「子育て講座」が開かれていました。町内5小学校の一日入学の場で、新入学児童の保護者を対象にした「講座」なんですが、これには少々違和感を覚えていました。

 新入学を間近に控えた保護者が、今一番関心があるものはなにか。それは、『わが子が小学校に馴染めるのか』、そして『自分自身がほかの保護者と馴染んで行けるのか』の2点に集約されると思うんです。そんな期待よりも不安が大きい親が、アドバイザーやカウンセラーの「子育てとは・・・」を聴いても、ほとんど耳にも頭にも入らないわけです。今そうした方々が欲しているのは、わが子が同級生や上級生に交わって笑っている姿を見ることと、間近にPTA仲間となる保護者たちとの懇談の場だと感じていました。

 平成15年度の「子育て講座」を審議する委員に委嘱された私は、第一回会議の冒頭これを発言しました。“講座ありき”で、どのような方をお招きするかを話し合う会議なんですから、これはおそらくヒンシュクものと思っていたのが、ほかの委員も異口同音に賛意を呈してくれました。いわゆる「勉強会」はその後いくらでも機会があるし、わざわざ落ち着かない人たちを相手に開く必要はないことを、他のみなさんも感じていたようです。

 講演会そのものを否定するんじゃないんです。ただ、そのときばかりは“過ぎたお見舞い”なんですね。

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の三十「文明の利器と家庭教育」平成17年5月号

 どんなに便利なモノでも、使い方を誤ったり、未成熟の人間が使ったりするととても怖いことになる場合があります。“文明の利器”と云われる優れたモノほど、そういう傾向があるんじゃないでしょうか。

 一般家庭でもよく見かける「パソコン」。小学校でも授業に組み込まれるようになってからは、子どもたちも手際よく操作するようになりました。そしてもう一つに「携帯電話」。今や小学生でも持っている子が珍しくありません。そんな昨今、メールやインターネット上で子どもたちのトラブルも多くなっています。児童・生徒とその保護者を対象にしたある調査で、わが子がインターネットをどのように活用しているか把握していない親がとても多いことに警鐘を鳴らしていました。あるいは、『これはちょっと…』と思われる使い方をしていても、それに具体的な対処をしていない親も多いそうです。

 私が高校1年のとき、母親が原付免許を取得して当時流行りのママさんバイクを購入しました。16歳の少年がこれを黙って見ているわけがありません。最初は自宅前で動かす程度でしたが、そのうち足を延ばすようになりました。もちろん無免許です。やがて運の尽きるときが必ず来るものです。警察官が母親に対し、『母さんがこんたハイカラなバイクさ乗ってるんだば、息子も乗りでぐなって当だり前だ』と話したのを思い出します。おそらくその警察官は、『便利なものを買うのは良いが、管理を怠ると子どもが不幸になる』と言いたかったんでしょう。幸い誰に傷を負わせることもなく、10日間の停学と坊主頭で幕が閉じられました。

 インターネットの世界で“事故”を起こしたら、停学や坊主頭では済まないかも知れませんね。

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の三十一「子育てサポートは過干渉!?」平成17年6月号

 自らさせるべきことを他の人間がしてしまう「過干渉」。よく親がわが子にしてしまう言葉として用いられます。育児の専門家もこれを大きな問題に取り上げていて、不登校要因の一つとも云われます。

 子育て支援がテーマの会議に出席する機会があるのですが、ときどき出会うのが『子育て支援は親の育児放棄を促す恐れがある』といった趣旨の発言です。確かに保育園などでは、そう思える親が少ないにしてもいるという話を聞きます。では、私たちの一時託児や送迎の現場はどうでしょう。依頼や問い合わせの電話でも、また現場のサポーター会員の話を聞いても、明らかにこの活動に“甘えている”と感じたことは、幸いにして一度もないんですね。これは他のサポートグループの方々に訊いても同じ答えが返ってきます。

 手助けを意味する「支援」とおせっかいを意味する「過干渉」。似ていながらまったく別モノなんですが、この境界がどこなのか明確に記すのはなかなか難しいですね。私たちの活動も商売ではありませんから、『理由を問わずお預かりします』ということはしないのですが、かと言って明確に記された「基準」もまたないんですね。たとえば、親が遊びに行くために子どもを預かって欲しいというのは「不可」でも、結婚記念日に二人だけで食事がしたいというのは「可」だと思うんです。一年に一度、夫婦二人だけで過ごす時間を作ってあげるのは、子育てにおける「支援」と呼べるんじゃないかって。もっとも、結婚記念日を証明できるものを見せてもらうわけじゃないですから、これもイイ加減と言えばその通りなんですけどね。

 厳格な手引書のある公的施設とは違う民間活動には、こういう曖昧なところがまた良いと思ったりもしています。

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の三十二「叱らない子育て」平成17年7月号

 躾や教育という大義名分のもと、子どもを叱るという行為がごく当たり前に存在します。もちろんそれを否定するだけの論拠は持ち合わせていませんし、叱る必要がない子どもというのも、ちょっと気持ち悪い感じがします。

 『父親に一度も叱られた記憶がない』という人と、何人かめぐり合いました。それは父親が子どもに無関心だったというのではなく、「叱る」というより「諭す」という対処だったからではないのかなと推測するのは、その人たちが心の優しい大人に成長しているからです。もちろん叱られて育った人間は心が荒くなるなどということが仮にあったとしても、それは常識を超える叱り方なんだろうとは思います。ただ、少なくともその人たちの穏やかな性格を見ていると、小さな頃からの環境がなんとなく想像できるんですね。

 最近、精神科の高名な先生の講演を聴く機会に恵まれました。先生は、『もしかしたら、家庭の中ではすでに父性的なものは要らないのかもしれません』と言っています。子どもでさえ外的ストレスの多い昨今、厳しさが伴う印象の父性的なものより、家の中は「優しさ」と「くつろぎ」がもっとも重要という意味に受け取りました。

 三女がまだ2歳にもならない頃、たびたび人を噛むことがありました。普段は叱ることがない私もこの行為は直さなければならないと思い、それはヒドく叱ったものです。ときには叩くことさえしました。そのときも叱りながら、私自身言い難い抵抗があったのですが、2歳の子どもを叩いたところで悪影響しかないことを知ったのは、ずいぶんあとになってからです。

 今三女にちょっと甘いのは、そういう負い目があるからかもしれませんね。

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の三十三「子育てと記憶力」平成17年8月号

 一度経験したことが次に役立つっていうこと、日常にも多いですよね。でもこれが、20年30年前の経験となるとなかなかうまくは行かないようです。

 子どもを育てるのに必要なものと言えば、まず第一に愛情、そして最低限の経済力、あとは育児方針のようなものでしょうか。常々感じていたのが、もうひとつ「記憶力」なんです。子どもも保育園あたりから外的ストレスが現れます。小学校も高学年にもなれば、日常にそれはいろいろあるでしょう。そういったものに慣れていくのも成長過程なんでしょうが、ときに子どもの頭ではすぐに解決できない“難事件”もあります。そんなとき、さりげなく導くために自分の過去の記憶が欲しくなるものでした。

 当たり前の話ですが、私もカミさんも子ども時代を経験しています。親に叱られながら理不尽を感じたこと、思うようにできなくて八つ当たりしたこと、素直になれなかったけど心の中ではとても反省していたこと、そういうことがきっとあったはずなのに、それらをわが子の子育てに上手く活かせたとはとても思えないんですね。カミさんは自分の子ども時代と娘たちをよく照らし合わせているようですが、やっぱり合致しないことが多いみたいです。性格で顕著な点はむしろ私に似た娘たちでしたから、男と女の違いはあるにしても、自分の幼少時代を憶えていれば役に立つこともきっとあったんじゃないかって。

 もっとも、子ども時代といえツラい思い出をいつまでも引きずるのは好ましくないでしょうし、だいたいのことを忘れているのはむしろ健康的なのかも知れませんね。たとえ憶えていたところで双子はすでに中学生ですから、対処はオヤジの範疇にありませんしね。

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の三十四「子どもも芸は身を助く!?」平成17年9月号

 『まさかあの人にこんなことができるなんて・・・』。世間で珍しくなく聞く言葉です。かくし芸大会じゃないですが、人それぞれに普段は見せない「一芸」があるようです。

 双子の娘も中学生になって、自分だけの時間を持つようになりました。かつてはどこへ行くにもついて来た娘たちが、親の社会関係とは一線を画すようになってきましたね。いわゆる「お年頃」と言うやつでしょう。そんな娘たちが、今でも私に付き合っているものが一つだけあります。それは、郷土芸能「おやま囃子」。

 角館町の観光施設に「西宮家」というところがあって、ここの中庭を会場に娘たちの手踊り披露をはじめたのが三年前です。踊りを知る地元の人たちにはさほど上手に見えない娘たちの踊りも、観光で角館を訪れた方々にはことのほか好評でした。この披露も小学生のうちかなと思っていたところ、今年も続けることになったんです。普段は控え目というか、他人の前では蚊の鳴くような声しか出せない双子が、『手踊りだけは何百人の前でも平気』。この「芸」だけは、いささかの自信があるようです。もうちょっと推測すると、観光に関わる私の仕事を小さな頃から見てきた娘たちには、観光客に喜んでもらうことが自分の「役目」と思える部分があるのかも知れません。

 この手踊りは、3歳の頃にカミさんの勧めではじめたものでした。「他人の前で物怖じしない人間になって欲しい」ことを願いにはじめたのですが、普段の生活は別として、この踊りだけはまんまとカミさんの意図通りになってますね。

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